原子爆弾とは〜注36

公開: 2019年8月23日

更新: 2019年8月xx日

注36. ロシア国内における共産党の弾圧

1905年の1月、サンクトペテルブルクの宮殿に向かっていたガボン神父に率いられた群衆に対して、宮殿の護衛兵が銃を発砲し、多数の犠牲者が出ました(血の日曜日事件)。この虐殺にロシアの国民は怒り、講義のためのストライキが全国に広がりました。

1905年の6月、ロシア海軍の黒海艦隊で、「戦艦ポチョムキンの反乱」が起こりました。これは、水兵らによる武装蜂起でした。朝食のボルシチ料理に腐った肉が使われたことに不満を述べ水兵に対して、指揮官が罰を与えようしたことに反対し、水兵らはライフル銃を持って士官の武装を解除し、その一部を銃殺しました。

このとき、戦艦ポチョムキンと一緒に射撃試験に加わっていた魚雷艇の乗員も合流して、赤旗を掲げ、革命を宣言したそうです。その後、反乱軍はデモに参加していた労働者と合流して、大規模なデモ行進を実施しました。このとき、水兵は皇帝の軍隊や警察と衝突し、銃撃戦になりました。

皇帝ニコライ2世は、この反乱を危険な活動と見なし、黒海艦隊の司令官に速やかに反乱を鎮圧するように命じました。黒海艦隊は、10数隻の戦闘艦をポチョムキンに向けて出航させ、司令官はポチョムキンの反乱兵に対して、指揮官が乗船していた旗艦に来るようにとの命令をしましたが水兵たちは拒否をしました。

戦艦ポチョムキンは、鎮圧に向かった艦隊の中を航行しました。戦艦ポチョムキンは、鎮圧軍の戦闘艦へ大砲を向けたまま、戦闘艦の間を進みましたが、鎮圧軍の戦闘艦が大砲を発射することはありませんでした。鎮圧軍の戦闘艦の乗員は、戦艦ポチョムキンに対して「万歳」の声援を送ったとされています。

その後戦艦ポチョムキンは、航行を続け、母港に戻ろうとしましたが、港では、水や食料の補給が拒否され、ルーマニアに向けて出航し、ルーマニアの港での物資の補給を望みましたが、ルーマニア政府に拒否されました。結局、戦艦ポチョムキンは、ルーマニア政府に引き渡され、その後、ロシアに返還されました。

ロシアでは、国民の間の不満は高まり、ゼネストが拡大し続けたため、ロシアの政治や経済はマヒ状態になりました。この状況で、ニコライ2世は戦争終結を決め、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で、1905年8月、日本との講和が成立しました。

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